日本の皇室とタイ王室の関係
ความสัมพันธ์ระหว่างราชวงศ์ญี่ปุ่นและราชวงศ์ไทย
前史
1388年、将軍足利義満のときに、暹羅船が日本に
1年間滞在したという記録がある。
また、14世紀にタイ中部で興ったアユタヤ朝は
次第に勢力を伸張させ、1362年にアンコール朝を吸収、
1438年にはタイ北部のスコータイ王朝を滅ぼし
タイを統一した。
このころから既に日本人の一部はタイに入植して
おり、アユタヤには日本人集落も形作られるように
なった。
1477年には琉球王尚真がタイと交易を開いた記録が
残っている。
日本人町の形成

タイでの日本人の活動が活発化したのは、ビルマからの攻撃に悩まされていたアユタヤ王ナレースワンが
日本人傭兵を大量に採用してからである。
傭兵の数は600人に達し、彼らは首都郊外のアユタヤ日本人町に定住するようになった。
1592年から朱印船貿易が行われるようになると町は
活況を呈し、ソンタムがアユタヤ王につくと日泰間の友好関係も促進された。
日本はタイ製の火器・銃器などを輸入し、馬などを
輸出した。
また、豊臣氏、徳川氏が天下をとることによって
合戦が起こらなくなった日本では、それまで戦に
参加することで日々の糧を得ていた層が、大量の浪人となっていた。彼らは海外に活躍の場を求め、
日本を出国していった。欧州各国の東インド会社や、東南アジア諸国は、戦闘経験の豊富な日本人を傭兵として雇うようになり、各地に日本人町が作られた。
タイもまた、例外ではなく多くの日本人が移り住んだ。
1621年には城井久右衛門の後を継いだ山田長政が
首領に就任、最盛期を迎え、1500人もの民間人と
800人の傭兵が居住していたとされている。
1628年には山田長政がタイの最高の官位である
オークヤーに任じられるなど、政治面でも大きな力を持つように
なったが、1629年プラーサートトーンがアユタヤ王につくと王家の政争に巻き込まれ1630年に町を焼き払われることとなり、日本人は散り散りになった。
2年後の1632年には再び日本人が集まり町が再興されたがかつて程の勢力は得られず、
1635年に日本で鎖国令が
出されたこともあり、人口も400人前後にとどまった。プラーサートトーンはその後日本との交易を望み、
1636年に日本に使節を送り通商を求めたが拒否されている。以後250年ほど日泰間の国家的な交流は
断絶することとなった。
日本人町はその後次第に現地人との混血が進み、
1800年代に入ると消滅した。
第一大戦後
1921年日本は再び修好通商条約を結ぼうとした。
今度の条約では日本人の土地所有を認めさせたり、
タイの裁判所に日本人弁護士を設置しようとするものであった。しかし、タイは第一次世界大戦に参加して戦勝国となり国体的地位をある程度認められていた
上に、国際的に不平等条約撤廃という動きのある中で、日本のより進んだ不平等条約は受け入れられないものであった。
このため日本は1924年3月10日にアメリカが1920年に調印したものと同内容の修好通商条約を締結した。
これは後にタイが立憲革命を経て法典整備を完了すると、欧米諸国とともに不平等条約を撤廃するに至る。
タイ立憲革命を支援した矢田部保吉駐シャム公使の
働きかけにより、満州事変の際、リットン調査団報告書の承認に関する国際連盟総会における決議で、
タイが棄権票を投じた。
しかしながらこれは、欧米にも日本にも、どちらにも肩入れできないタイにとって、苦渋の選択による
中立であった。しかしこのタイの姿勢は、
日本に好意的に解釈され、松岡洋右代表による
「タイは日本のために賛成票を投じなかった。
欧米はこのことを教訓にすべきだ。
友好国タイを攻撃するものがあれば日本は全力で
タイを守る」との旨のコメントが新聞に発表され、
日本から感謝の電報が送られた。
1931年にはラーマ7世が訪日した。
1940年から1941年にかけてのタイ・フランス領インドシナ紛争ではタイはフランスに対して次第に
劣勢となったが、1941年5月8日に日本の調停によって
カンボジアとラオスの一部がタイに返還された
(東京条約)。
1941年4月28日、ナラーティップポンプラパン親王(ワンワイタヤーコーン)親王が靖国神社を参拝する。
太平洋戦争が開戦した1941年には
初代駐タイ大使として坪上貞二が着任し、
日本はタイ領の通過を求めて
1941年12月8日南タイを侵攻、同11日には
『日本国軍隊のタイ国領域通過に関する協定』を
タイ=日本間で締結した。
これはタイに戦争協力を求める一方で、
タイがイギリス・フランスに割譲した領土の回復に
協力するとの旨が書かれていた。
このためタイ政府は日本に協力的姿勢であった。
12月12日、外務大臣ウイチット・タワカーンが
靖国神社を参拝する。
12月21日には日泰攻守同盟条約が締結された。
1942年1月25日、タイはアメリカ・イギリスに
対して正式に宣戦布告した。
しかし、この布告文書には摂政の一人
プリーディー・パノムヨンが署名していなかった。
この戦争中の日本との濃厚な外交関係はインフレなどの大きな問題を生んだが、一方で日本はスズ、チーク材と言う米と並んで重要な輸出品目をイギリス商人の独占から解放し、中央銀行を設置してイングランド
銀行からタイ経済を分離させたという側面も持っていた。
1942年1月に日・タイ両国学生交換協定が締結され、同年6月には、広田弘毅元首相や、矢田部保吉特命全権大使、水野伊太郎特命全権公使、朝海浩一郎書記官、東光武三書記官、岡本清福陸軍少将、三島通陽子爵らが、日泰攻守同盟条約慶祝答礼使節団として訪問する。1943年11月の大東亜会議にはナラーティップポンプラパン親王がタイを代表して出席している。
一方で、駐米大使セーニー・プラーモートはアメリカへの宣戦布告伝達を拒否し、自由タイ運動と呼ばれるグループを組織した。これはタイ国内、アメリカなどにも広まり、連合国側との連絡をつとめた。
当時の首相であったピブーンソンクラームは、
閣僚の一人であるルワン・プラディットマヌータムや摂政プリーディーがタイ国内で自由タイに参加する
事を黙認し、枢軸国が劣勢になった場合に備えての
布石とした。その一方で日本に対しては、
自由タイなど眼中に無いかのように振る舞った。
1944年頃から日本の旗色は次第に悪くなって行った。ピブーンソンクラームは、自由タイのメンバーであったディレークを外相に指名するなど、英米よりの外交政策に切り替え始めた。7月にはピブーンソンクラーム自身も辞職に追い込まれている。
日本降伏後の日タイ関係
1945年8月12日、駐タイ日本大使山本熊一はポツダム宣言の受諾決定をタイ王国政府に通告した。
これは日泰攻守同盟条約に基づくものであったが、
タイ政府は通告が遅いと不快感を示し、
山本大使は突然の決定であったためと弁明した。
しかしタイ政府側は11日の時点でこの情報を察知していた。
8月15日、山本大使はタイの戦争協力に対する謝意を伝える口上書を渡した。この席で、クアン・アパイウォン首相は対米英宣戦布告を無効にする宣言を発することを日本側に伝達し、山本大使の内諾を得た。
8月16日、国王の名の下、摂政プリーディーは、
「対米英宣戦布告はタイ国民の意思に反したものであり、
日本に強制されて行ったのであり、戦時中の損害に
ついてはすべて補償を行う」という平和宣言を発した。
これはタイが敗戦国扱いを免れるための措置であり、自由タイと連絡を取っていた連合国もこの「平和宣言」を受け入れ、現在でもタイの主要な戦争認識である。翌日、プリーディー摂政の元を訪れた山本大使は、
「昨日発表せられたる宣言により一日も速かに戦争を終結せられんことは帝国政府の最も希望する所である」と伝えている。タイ宣戦布告無効を日本の内諾を得て行ったのは、当時日本軍がタイ国内に残留していたこともある。
9月7日、ナラーティップポンプラパン親王が山本大使の元を訪れ、連合国の要請によるとして、タイにおける日本外交機関の停止を通告した。親王はこれが国交断絶を意味するものではないと説明し、その後も
タイ政府は外交関係が一時的に停止しているだけだという見解をとり続けた。
9月12日、在留日本人の銀行取引の停止および特定地域からの立ち退きが通告され、9月16日には敵性外国人として、日本人3600人がバーンブアトーン収容所などに抑留されることになった。1946年5月、残留を希望する552人を除く3020人はバンコク港から出港し、帰国した。また在タイ日本財産は連合国に引き渡すために一時的にタイ政府が押収したが、これは1946年までは正式な連合国との協定に基づいて行われたものでなく、横領が頻発した。
1952年4月28日に発効した日本国との平和条約に
よって日タイの外交関係は回復した。
タイが押収していた財産は日本側の希望によって
日本に引き渡されることとなっていたが、
日本側は第三国に過ぎないタイ側の財産侵害は
不当であると抗議した。
この問題は両国間の懸案事項となり、1953年7月30日の日タイ間合意によって、タイは一定額を連合国に
支払うかわりに、在タイの日本財産を手中にすることになった。
また、第二次世界大戦中に駐留した日本軍がタイから調達した軍費の弁済については、1955年の日タイ特別円協定によって一応の解決をみた。
1963年6月4日、ラーマ9世国王の内意により、
タイ政府関係者が靖国神社を代理参拝した。
タイ海軍の練習艦隊乗組員(士官候補生)によって
靖国神社の正式参拝も行われている。